棚田の石積みと用水

 坂折では、石垣が田畑などの農地、宅地、河川の護岸、植林の区画など、さまざまな用途に利用されています。坂折地区は、権現山や見行山から出た岩、礫、砂や粘土からなる傾斜地で、地中の岩や礫は土地造成や耕作の大きな障害でした。その半面、石垣の構築に必要な石をその場で確保できるという利点がありました。棚田の石垣に使われている石材は、自然石で坂折の古い屋敷地の石垣、古くは中山道の石畳や縄文時代などの石器にも利用されていました。
 坂折は、坂折川を挟んだ東西で地形・地質など自然条件の差があります。
 傾斜が急で、出る石も相対的に小さく少ない、断層崖となる西側(右岸)は、小さな石を高く積んだ「タカボタ」と呼ばれる石垣が多く、石垣の上にあぜがある水田です。また、湧水が多く、それに伴う手あぜが多くあります。
 これに対して、傾斜が緩やかで出る石も大きめな東側(左岸)は、大きな石を積んだ石垣が多く、石垣の高さも低めで、清水口や暗渠が多くなっています。

 

 

黒鍬(くろくわ)が伝えた石積みの技術

【石工の系譜】

 坂折棚田は江戸時代の初めに始まったとされ、約四百年の長い歴史があります。戦国時代の築城の技術者「黒鍬」が「谷落とし」という技術で石垣を積みました。石垣は30年~50年で崩壊すると言われ、江戸時代から大正期まで石垣を補修しながら田を広げる「田直し」が繰り返され、現在の坂折棚田ができました。
 昭和の初めには、島根生まれの石工が中野方に移り住み、弟子をとりました。一番弟子は伊勢湾台風の後、名古屋城の修理に行き、石垣を積んでいます。戦後は、ほ場整備や農地の改良などにより、一部石積みの形状が変わり、田の面積が広がりました。
 恵那市坂折棚田保存会では、伝統的な石積み技術を伝承しようとする取り組みを始め、石積みの基本を学んだ後、実際に崩れる恐れがある石垣を積み直しています。

 

【横積み(布積み)】

 古くから用いられている方法で、基本的には素人積みと考えられます。石材を横方向に並べて据え置き、横目地が通るように積みます。上石の重みが下石二つの上になるべく等分にかかるように「品」字形に積むのが基本です。

 

【谷積み(落とし積み・あじろ積み)】

 自然石を斜めに使い、下石がつくる谷を、上石を斜めに使いながら埋めていき、次の谷を作り出していく積み方です。ここでは、江戸時代から黒鍬が用いた伝統的な方法を指します。石の大きさを揃えあじろを編んだように整然と組んだ石積みを「あじろ積み」と言います。

 

【乱積み】

 素人積みとして最も多く、出てきた自然石を手当たり次第に積むため、石材の大きさや形が不ぞろいで、横目地は通りません。

 

【隅角石(石垣の角の積み方)】

 

涵養林の豊かで清浄な水が棚田の命

【灌漑用水と水利】

 坂折川の右岸(西側)は、赤河断層崖の急な斜面で坂折川と接しています。この急斜面側には、ホラ(洞)と呼ばれる小支流や湧水が多くあります。これらの洞や湧水が水田の灌漑用水源となっています。
 坂折川左岸(東側)は、比較的緩斜面が広がっています。岩竹川を除いて顕著な支流はほとんどなく、湧水も少ないため坂折川・岩竹川から直接パイプ(かつては樋)で取水する田も多く、西岸に比べ水利系統は単純です。傾斜が緩い分、田一枚の面積は相対的に広くなっています。

 

【手あぜとアト口】

 坂折棚田の水源は、背後の山地から流れる小川と地下水でした。長大な用水路を建設せずに、すぐ近くを流れる小川や地下水を利用して水田を造成しました。山側からの冷たい清水は米の生育に影響を与えるため、直接水田に入らないように「手あぜ」と呼ばれる小水路が設けられています。この手あぜを巡回して暖められた水を用水として利用しています。また石積みの一部や山際などに「暗渠(あんきょ)」や「清水口」と呼ばれる鳥居型の石組も用水として利用されています。

小水路がある手あぜ

 手あぜ以外にも、「あと口」と呼ばれる取り入れ口と落とし口が一体となっている方式を採用し、川や用水路から直接入れないようにしています。山裾に湧き出る冷たい水を貯めて水温を上げる工夫が施されています。また、水田から地下への一定の漏水があるため、水腐れの心配をなくしています。

 水田への入水にも、それぞれの工夫を凝らしています。竹の桶、今はポリパイプを使って夕方から朝、朝から昼までというように一定時間だけ入水する方法。あと口がなく水が流れないように入水する方法。あと口がなく広いぬるめを流す方法。こうした先人の知恵が随所に活かされています。

 

 

PAGE TOP